
兵庫県丹波市の田舎で男三人兄弟の長男として生ました。
敬雄(のりお)という名前は、おがみやさん(民間の祈祷師・名前をつけてくれる人)の候補三枚から私が選んだ名前だそうです。
父親は中卒で農協の経済連でサラリーマンとして働き、晩年はたたき上げで所長に昇りつめました。
母親は中学卒業後、美容学校に行き、親戚の大きな美容室で修行して独立して美容室をやっていました。
本家から譲っていただいた田んぼに、小さな平屋建ての自宅兼美容室を建てて、夫婦共稼ぎで私たちを育ててくれました。
小学校時代は、リーダー的な存在で、私の周りにはいつも人の輪ができていました。
それが、小学高の児童会長の立候補演説で事件はおこりました。600人の生徒の前で、
赤面症どもりが発症し、しどろもどろになり、結果、最下位、その時から人前で話せなくなりました。
中学、高校時代は闇時代でした。家が小さかったので、自分の部屋が無くて、兄弟三人と父の四人で縁側に机をギュウギュウに並べていました。
友達から「家に遊びに行きたい」と言われるのがつらくて積極的になれなかったことと、
赤面症どもりで、暗い学生生活を送っていました。
大阪の近畿大学に進み、親から長男はあとを継げと実家に帰るように言われていたので、ゼミの先生に相談したところ、税理士になったらいいと勧めてくださいました。
卒業後は、実家に帰り、税理士試験の勉強をしながら、30㎞離れた税理士事務所に通いました。
日曜日しか休みがない時代で、地元の青年団へは何とか参加して、消防団のおさそいは辞退させて頂きながら、税理士試験に合格することができました。
同じ年に大学の同級生の妻と結婚し長女が生まれ、神戸の現在の芦田会計事務所に転職しました。
一方、相変わらず赤面症どもりは続いており、何とか変われないかと、中村天風などの成功哲学の本を読んだり、三日間缶詰の自己啓発セミナーに27万円も払って参加したりしていました。そんな中で、ある研修で学んだアファメーション(自己暗示)を毎日、鏡に向かってやったところ、数年したころに赤面症どもりが治りました。
35歳の時、実家の母が癌になったと悲報を受け、闘病生活を経て亡くなりました。
マザコンの私は号泣した挙句、悲しみのあまりその後の三年間くらいの記憶がありません。
人は死ぬんだ、ということを初めて実感し、人生にスイッチが入りました。
先代の芦田泰輔先生には、身内に後継者が居らっしゃらなかったので、「おまえやるか」「はい」と譲って頂きました。
私が未熟だったために、ベテラン11人が退職され、100件ほど顧問先が解除になり、パニックに陥りました。
その後も、税理士資格をとられた職員の方に、顧問先をもって独立されることが続きました。
経済連で所長までやった父は、色んな相談にのってくれました。この時ほど父を尊敬したことはありませんでした。
笑をとる天才で、親戚のおばちゃんから、のりおちゃんのお父ちゃんは、場を盛り上げる天才やと言われました。
父に、芦田先生から多額の借金を引き継いだ報告をすると、自宅を売却して無借金にしてもらってからにしろと、大変心配してくれて、お父ちゃん、もう遅いわ、ハンコついてしもたわと、やり取りがあったことを思い出します。
現在の幹部の方達に助けられ、なんとか危機を脱すると、今度は私がおかしくなってきました。
夜の接待で散財し、東京の会合に出向き、事務所経営も知らずにわかったようなことを話し、ドクターが譲ってくださったポルシェに乗ると事務所が荒れて、一年で手放しました。
なかずとばずの私が、コロナに入り、事務所はますます停滞状態に陥り、いろんな指導を仰ぎましたが、いまいちパッとせず八方ふさがりになりました。
そんな時に「思考の学校」に出会いました。
いまでは、売上は前年比108%、新卒者4名確定、グループ40名、見違えるような活気ある事務所になっております。
さらに、まったく「思考の学校」の考え方を知らない私の妻が、いったい何があったのというくらいご機嫌になりました。
子供二人もこの春から立派な社会人として元気に働いてくれています。
愛犬のコーギー2頭も、一頭は高齢ですが夏バテもせず元気で、
私は夕方の妻と愛犬とのお散歩が最高のひとときです。
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